「手首を捻挫してからどうしても上手く弾けなくて。こんな状態で人に教えているのが苦しくて辞めさせてもらったの。生徒さんたちには申し訳なかったんだけど……」マグカップに口をつけながら、春花は困ったように眉を下げた。「時間をかけながら生徒さんたちを説得したって、店長さんから聞いたよ」「そっか……」葉月には、自分の居場所を静に言わないでほしいとお願いしていた。静の中から自分の存在が消えたら良いのにとさえ思っていた。なのに今こうして会えて嬉しい気持ちになっている。こうして捜してもらえたことに感激さえしている。なんて矛盾した気持ちなのだろう。目が合って、ふわりと柔らかく微笑む静。 春花はそんな静を求めるように胸が震えた。「保育士になったんだね」「うん。なんだかんだピアノが忘れられなくて。ちょうどここの求人を見つけて、リトミックに力をいれてるし保育士免許も持ってたし、ダメ元で受けてみたんだ。それでまた子供達の前でピアノを弾いて、一緒に歌って、ああなんかいいなって思った」「そっか、これが春花の天職だったんだ」「そう、なのかな? だけど……」言いかけて春花は言い淀む。一度目を伏せてから、静を窺うように見つめる春花に、静は首を傾げた。「うん?」「今日、静と弾いたトロイメライが一番楽しかった。静に敵うものは何もなくて。本当に嬉しくて、楽しくて。ずっと弾いていたいって思った。静が来てくれたのが嬉しかった」「俺は後悔してたよ。あの時なんですぐに日本に帰らなかったんだろうって。なんで海外に行ったんだろうって。もう後悔はしないって決めたはずなのに。春花に会いたくてたまらなかった」「今さら、こんなこと我がままだと思うけど……。私……、静とずっと一緒に……いたい」「春花」ぐっと手を引かれ、春花は座ったまま前のめりになる。静に抱きとめられポスンと胸の中に納まった。「俺も一緒にいたい」「いいのかな、私で」「いいんだよ。春花じゃなきゃダメだ。もう絶対離さないから。俺と結婚してください」きつく抱きしめられながら春花は静のぬくもりに酔いしれる。 すれ違っていた想いはまたひとつになって、やがて涙となった。「……はい」雫がキラキラと頬を伝う。 そのまま交わした口づけは、甘く蕩けるようで、そしてすこし涙の味がした。 【END】
◇小さく古い一軒家。少し錆びている門を開けると、油が切れかけているのかキィと小さく鳴った。玄関を入ると、なんだか懐かしい香りがする。「ここ、おばあちゃんちなの。空き家になってたところを借りたんだ。まわりは山に囲まれて、自然がいっぱいでのんびりしてるでしょ」前に住んでいた場所とはまるで違う。人も街も時間の流れさえもゆったりと感じられ、まとう空気も澄んでいるようだ。裏手にはだだっ広い庭が広がる。リビングに通されると「座ってて」と言われ、静は素直に従う。すぐ横にはキッチンがあり、一人暮らしの慎ましやかな生活が見てとれた。物はあまり多くないところが春花っぽい。ふいに指先にふわっとした感触があり、目線を落とす。「ニャア」「……トロ、元気だったか?」体を擦り付けるようにしたトロは、頭を撫でられ気持ち良さそうにゴロゴロと鳴いた。ポットでコーヒーを淹れる、コポコポとした音でさえ耳に優しく響いてくる。とても静かな環境に、静は大きく深呼吸をした。春花がいてトロがいて、部屋の片隅には使い込まれた電子ピアノ。そんな緩やかな感覚が妙に心地好い。静の目の前にマグカップがコトリと置かれる。一緒に住んでいた頃には何とも思わなかった行動ひとつが、今はとても愛おしく感じられた。
宣言通り、春花の退勤時に迎えに来た静は、春花の姿を捉えると柔らかく微笑んだ。春花はどんな顔をしていいかわからず、ぎこちなく笑う。「あ、そうだ。海外公演大成功おめでとう!」「ありがとう」「すごいね。ニュースで見たよ。やっぱり静はすごいなって思った。これからどんどん活躍していくんだろうね」静が活躍する姿を想像すると胸が震える。本当に凄い人が近くにいるものだと他人のことのように思った。突然、ぐっと腕が引っ張られ、春花はよろける。そのままガシッと抱きしめられたことに心臓がバクンと跳ねた。「そういうこと言うなよ」「静?」「俺はどんな栄誉よりも春花と奏でるピアノが一番好きだ。どんなに練習してもどんなに素晴らしい人と共演しても、春花と弾くピアノが一番楽しくてわくわくして、心が踊る」静の胸の中で聴く静の言葉は、嬉しくてそして悲しい。何も言えないでいると、額にしずくが落ちてきて春花は驚いて顔を上げた。「……静?」「好きなんだ、春花。ずっと一緒にいたい」「……嬉しいけど、静はこれからもっと活躍していくでしょう。だから……」「そうやって身を引こうとするな。メイサからすべて聞いたよ。春花が犠牲になることは何もないんだ。春花の犠牲の上でいくら立派な賞を取ったって何も嬉しくない。春花が隣にいてくれないとダメなんだ」ぽとりと落ちた静の涙は、やがて春花の視界すらもぼやけさせていく。「バカだよ、静は」「うん。でも春花ほどじゃない」「なによそれ……」春花は静の背中に手を回す。胸に顔を埋めると、懐かしい香りに包まれた。それがとても心地良い。春花の大好きな匂いだ。
「せんせーすごーい!」「素敵な演奏をしてくださった桐谷さんと春花先生に、ありがとうの拍手をしますよ」園長先生の掛け声とともにパチパチと拍手が送られる。 貴重な体験をした園児たちはその後も春花と静に群がり、やがて保育士たちに諫められて順番に教室へ戻って行くため列を成した。「突然のお願いだったのに、引き受けて下さりありがとうございました」「いえ、こちらこそ不審者のようにウロウロしてしまって申し訳ありません。お騒がせしました。実は僕は春花さんと同級生で、春花さんに会うためにここに来ました」「春花先生に?」「ずっと捜していたんです。春花さんは僕の初恋の人だから」園長と静が会話しているのを、聞き耳を立てながら園児たちの誘導をしていた春花だったが、静の発言により思わず足が止まる。こっそりと静を窺うが、その視線はバッチリと捉えられ逸らすことを許されない。「春花、仕事が終わるまで外で待ってる。迎えに来るから」頷くことはできなかったが、頬がピンクに染まってしまったことでハッと我に返り、そのまま春花はそそくさと園児たちと教室に戻った。「春花先生、そこのとこ詳しく!」「なれ初め教えてください」「後で話聞かせてよ~」と同僚の先生方に声を掛けられ、春花はかつてないほどに戸惑った。どうしてこうなったのだろう。意味が分からない。そんなことを漠然と思いつつも、静に会えた喜びが後からじわじわと押し寄せてきて、また泣きたい気持ちになった。(私はまだこんなにも静が好きなんだ)自分から離れたのに。 誰よりも応援するために離れたのに。 会えたことがこんなにも愛しく感じるなんて。
「さあさあ、次で最後にしましょう」「え~! もっとひいてよ~」園長先生が声をかけると、園児たちから一斉に不満の声がわき上がった。思ったより大盛況になったコンサートに、静もニコニコと対応する。「じゃあ、最後は先生と一緒に弾いてもいいかな?」緩やかに声をかけた静の視線は、まっすぐに春花をとらえていた。目があった春花は内心ドキリとする。「春花、連弾で。トロイメライ」「……え」指名されたことに戸惑い動けないでいると、「はるかせんせ~」「ひいてひいて~」と、園児たちが口々に騒ぎ出す。それでも動けないでいると、今度は園児が春花の手を引っ張って静の元へと連れていった。静は春花をエスコートしてくれた園児たちに「ありがとう」とお礼を言うと、春花の肩を持って椅子に座らせる。大人しくストンと座った春花だったが、「……静」「春花」柔らかく名前を呼ばれ、その甘くて痺れるような声に心がザワザワと揺れ動いた。「いくよ」静のすうっという呼吸音に身がピリッと引きしまった。静のリズムに合わせて自然と指が動く。あんなに違和感があった左手首も、全く気にならない。静が隣にいるという安心感は絶大なものだった。(……楽しい!)演奏しながら、いつしか春花は笑顔になっていた。
子どもたちが遊戯室に集まる。遊戯室にはピアノがあり、舞台の真ん中に設置された。 園長が「みなさーん」と声をかける。ざわざわしながらも子供たちは「はーい」と元気よく返事をした。「今日は、ピアニストの桐谷静さんが来てくれましたよ。桐谷さんはピアノがとても上手なんですよ。みんなの知っている曲はあるかな?」園長が説明すると、最初キョトンとしていた園児達もあれやこれやと歓声がわいた。ザワザワとした遊戯室。 今から何が始まるのだろうと期待に満ち溢れた園児達。 大舞台に慣れている静でも、少しばかりプレッシャーを感じてしまう。なぜならそこに春花がいるからだ。ピアノの前に出てお辞儀をすると、パチパチと子供たちが拍手をした。子供たちの陰に隠れるように座る春花を確認してから、椅子に座る。ポロロン……と演奏が始まると、ざわざわしていた園児達は耳を澄ますようにしんとなった。「これしってる!」「あー!きいたことあるー!」演奏が進むにつれ、メロディに合わせて歌い出す子、リクエストする子も現れ、楽しそうな声が遊戯室にこだまする。春花はどうしたらいいかわからず、ぼんやりと静の演奏を聴いていた。(どうして静がここにいるの? どうして戻ってきたの?)ぐるぐる回る思考に考えが追い付かない。園児たちに囲まれて楽しそうにピアノを弾く静。タキシードを着ていなくても髪をきっちりセットしていなくても、そこに存在しているだけで眩しく輝いている。そんな彼を見て、泣きそうになった。